2017年3月20日月曜日

『ヨセフの見た夢』

 3月19日の礼拝は、『ヨセフの見た夢』というタイトルで高尾牧師より
メッセージを取り次いでいただきました。旧約聖書、創世記37章1節~11節。

 ヤコブは、12人の息子の中で、11番目のヨセフを特別に愛しました。ヨセフ
だけが袖付きの長服を着せてもらい、ほかの兄弟が汗水流して働いていても、
遊んで過ごしていました。そのため、ヨセフは、甘やかされた、無神経な
人間に育ちました。

 兄たちの悪い噂を父親に告げ口したり、自分の見た夢を言いふらし、兄たちが
どう思うか、全く考えませんでした。ヨセフにとって、長服は父親の愛のしるし
でしたが、その偏った愛によって、自分が特別な息子だと錯覚したのです。
他の兄たちと比べることによって、自分のアイデンティティを見出そうとした
のです。

 ヨセフの見た夢は、畑で兄たちの束が自分の束にお辞儀をした、というものと、
太陽と月と11の星がヨセフを伏し拝んだというものでした。夢は、神様が
ご自身の御旨を示されるものでした。しかし、その内容は兄たちにっとっては
腹立たしいもので、ヨセフは彼らの妬みと怒りによってエジプト商人へ売り
とばされてしまいます。しかし、後に、大飢饉で食べ物がなくなった時、エジプト
で大臣になったヨセフのもとに、兄たちが穀物を求めてひれ伏す、、という形で
その夢は実現しました。 

 一見、どうしてこんなことが・・・と思うようなことがあっても、神様の
ご計画の中には、神様の愛と善意が満ちています。神様は、私たちの人生も
導いてくださる方です。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく
知っているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画
であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29:11




 


 
 


 



 

2017年3月12日日曜日

『柔和な者は幸いです』



 新約聖書マタイの福音書。5章5節。「柔和な者は幸いです。その人たちは
地を受け継ぐから。」聖書の中には、柔和さを身につけた人物が登場します。

アブラハムは、人に譲ることが出来る柔らかさをもっていました。モーセは、
人に批難されても静かに受け止め、その人のために祝福を祈る人でした。
ダビデは、不当な苦しみを受けたとしても、復讐しない、神様の手に委ねる
人でした。

 そして、何よりイエス様は、全世界の王ですが、力で支配するのではなく、
愛で世界を変えようとされ、十字架にかかる道を選ばれました。そして、苦しめ
られても脅すことをせず、正しく裁かれる方にお任せになったのです。

 聖書の教える柔和さとは、怒らないとか、穏やかだというものとは違います。
神様との信頼関係の中からきます。イエス様から学び、イエス様に訓練され
ながら身についていくものなのです。

 柔和な者に与えられている約束は、地を受け継ぐこと。つまり、天国だけで
なく、この地上にあっても、豊かな歩みをすることができる、神様は柔和な
者に多くの物を任せられると約束しておられるのです。

 この柔和さは、謙遜と同じです。自分の貧しさ、神様の前にどうしようも
ない者であることを知っている者は、柔和なのです。自分が神様の前に罪人で
あることを知り、そのような自分が赦されていると愛してくださる神の愛を
受け止めるとき、神様にすべて委ねる信仰を持ち始めます。そして、自己主張
から解放され、柔和な者に変えられるのです。



 

 













 


『ただ、おことばを下さい』


 3月5日の礼拝は、『ただ、おことばを下さい』というタイトルで
高尾牧師よりメッセージを取り次いでいただきました。




 





 


 礼拝後は、一品持ち寄りで大橋神学生の送別会が開かれました。大橋
神学生は、3月10日に、東京基督教大学を卒業されました。おめでとう
ございます。新たな道へと進まれるまーく先生に祝福あれ(^^)vアーメン。

2017年2月27日月曜日

『天からの権威によって生きる』


 2月26日の礼拝は、『天からの権威によって生きる』というタイトルで、
高尾牧師よりメッセージを取り次いでいただきました。マルコの福音書
11章27節~33節。
















 また、礼拝後は、信仰継承の集いが行われました。子供たちと共に礼拝を
していくことの大切さ、また、工夫すべき点や各家庭での様子を一緒に話し、
分かち合うことができました。

 子供は皆「教会の子」であるという、基本的な理解を持つことが重要
です。神の家族だからです。どんなに親が努力しても、その子の気質、年齢、
体調、気候などによってコントロールが難しい時があります。

少しばかりのざわつきは、忍耐をもって見守ってあげたいものです。子供の
泣き声は、やがて主を賛美し、主を証しする声になる
という、信仰の目で見守っていこうではありませんか。