草加教会は、日曜の礼拝(オンライン併用)など諸集会を行っています。あなたのお越しをお待ちしております。【私たちの教会は、正統的なプロテスタントのキリスト教会です。旧統一教会、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教などの団体とは 関係がありません。】
あなたの街のキリスト教会です。
2016年6月28日火曜日
『あなたに欠けているもの』
6月26日の礼拝は、『あなたに欠けているもの』というタイトルで高尾牧師より
メッセージを取り次いでいただきました。
新約聖書、マルコの福音書10章17節~22節。イエス様のもとに、役人でお金持ちの
若い青年がやってきて「尊い先生、永遠の命を自分のものとして受けるには、どうすれば
いいでしょうか?」と尋ねました。この青年は、何もかも持っていましたが、将来に対する
不安がありました。
青年は、何か良いことをすれば永遠の命を手に入れることができると考えていました。
イエス様が十戒を言われると「それは小さい頃から守っています」と答えました。
律法は守っているけれども、天国への確信がなかったのです。
イエス様は、良いこと(律法)を行うことで人が救われるのではなく、良い方(神様)の
もとに行くことで与えられるのだということを教えるために、「あなたの持ち物を売り払い、
貧しい人に与えなさい」と言われました。
しかし、この青年にとって、お金は何よりも大切なもの、頼れるものでした。神様を
知ってはいましたが、神様に頼るより、お金に頼っていたのです。
私たちも、神様より他のものに頼っていることはないでしょうか?自分の力、財産、他人、
一時は助けてくれても、永遠まで保証してくれるわけではありません。しかし、神様は、
正しいと分かっていてもそうできない私を、ダメだと分かっていてもそうしてしまう私でさえ、
愛して赦してくださるお方なのです。
イエス様の十字架と復活を信じることによって、何かをしなくても永遠の命を与えて
くださる、唯一のお方なのです。
7月3日は、子どもフェスタですよ~(^^)vみんな、集まれ~~~~♪
2016年6月19日日曜日
初夏の特別礼拝
6月19日の初夏の特別礼拝において、キリスト教伝道者として各地を巡っておられる福澤満雄先生が「心の叫び聴こえますか」と題してメッセージを語ってくださいました。
ルカの福音書18章35~43節にはイエス・キリストが盲人の目を見えるようにされたという奇跡の話が記されています。
当時のユダヤは福祉制度などが整っておらず、この聖書箇所に出てくる盲人も日々物乞いをしながら苦しい生活をしていました。
その人の耳に各地で奇跡を起こしているイエス様が来られるという噂が届きました。そんなことは信じられないと奇跡の噂を否定しつつもこの盲人の心に一筋の光が差しこんできました。
「ダビデの子のイエス様、わたしをあわれんでください」と大声で叫び始め、周りの人に阻まれてもこの人は叫び立てました。イエス様に出会える二度とないチャンスを逃してはならないと本能的に感じ取ったのかもしれません。
そんな盲人にイエス様は近づいてこられ、「私に何をしてほしいのか」と尋ねられました。神の子キリストは当然この人が望むことを知っておられたはずですが、あえてお尋ねになったのです。
イエス様は我々一人一人の心のうちに「何を求めているのか」と呼びかけられます。我々も具体的な思いを伝えなければなりません。
イエス様はこの人の目を見えるようにされ、「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。
吹けば飛ぶようなちっぽけな「信仰」にもイエス様は目を留めてくださいます。信仰の長さ、強さ、熱心さなどではなく、ただ「イエス様を信じる信仰」のみによって応えてくださるのです。
自分の存在が認められないとき、生きている意味がわからなくなるとき、他人に自分が厄介者扱いされたときなど、人が心の奥底から叫び求めるときに答えてくださるのはイエスさまのみです。イエスさまに祈り求めるとき、過去の傷は癒され、生きる希望が湧いてくるのです。
福澤先生はご自身のお父様との関係修復の過程についても率直に語ってくださいました。心に負った深い傷はなかなか消えるものではありません。だからこそ、人は神により頼み、祈り求めつつ生きていかなければならないと深く思わされました。
ルカの福音書18章35~43節にはイエス・キリストが盲人の目を見えるようにされたという奇跡の話が記されています。
当時のユダヤは福祉制度などが整っておらず、この聖書箇所に出てくる盲人も日々物乞いをしながら苦しい生活をしていました。
その人の耳に各地で奇跡を起こしているイエス様が来られるという噂が届きました。そんなことは信じられないと奇跡の噂を否定しつつもこの盲人の心に一筋の光が差しこんできました。
「ダビデの子のイエス様、わたしをあわれんでください」と大声で叫び始め、周りの人に阻まれてもこの人は叫び立てました。イエス様に出会える二度とないチャンスを逃してはならないと本能的に感じ取ったのかもしれません。
そんな盲人にイエス様は近づいてこられ、「私に何をしてほしいのか」と尋ねられました。神の子キリストは当然この人が望むことを知っておられたはずですが、あえてお尋ねになったのです。
イエス様は我々一人一人の心のうちに「何を求めているのか」と呼びかけられます。我々も具体的な思いを伝えなければなりません。
イエス様はこの人の目を見えるようにされ、「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。
吹けば飛ぶようなちっぽけな「信仰」にもイエス様は目を留めてくださいます。信仰の長さ、強さ、熱心さなどではなく、ただ「イエス様を信じる信仰」のみによって応えてくださるのです。
自分の存在が認められないとき、生きている意味がわからなくなるとき、他人に自分が厄介者扱いされたときなど、人が心の奥底から叫び求めるときに答えてくださるのはイエスさまのみです。イエスさまに祈り求めるとき、過去の傷は癒され、生きる希望が湧いてくるのです。
福澤先生はご自身のお父様との関係修復の過程についても率直に語ってくださいました。心に負った深い傷はなかなか消えるものではありません。だからこそ、人は神により頼み、祈り求めつつ生きていかなければならないと深く思わされました。
2016年6月13日月曜日
『かしこよりきたりて』
6月12日の礼拝は、『かしこよりきたりて』というタイトルで高尾牧師よりメッセージを
取り次いでいただきました。
Ⅱコリント5章9節~10節。イエス様が天にあげられた後、教会が誕生しました。
初代教会は、イエス様の愛と恵みに対する感動、多くの人が加えられる喜び、そして
イエス様が再びこの地に来られるという希望(再臨)がありました。
しかし、イエス様が再び来られると聞いて、テサロニケの教会は落ち着きを失ったり、
仕事を辞めたりする人がいました。
私たちも、地震や飢饉の噂を聞いて、世の終わりは近い、と思うかもしれません。
しかし、イエス様は「終わりがきたのではありません。」と言われます。イエス様がいつ
来られてもいいように過ごすとともに、私たちにはキリストにある希望があるのだから、
最後の日まで、落ち着いた生活をし、成すべきことを精一杯やり遂げたいと思います。
再臨の日というのは、最後の審判とも思われる神の裁きの日でもあります。すべての
人が、自分のしたことによって裁かれ、報いを受けます。しかし、イエス様が私たちの
全ての罪のために十字架で死なれ、私たちの罪の判決を受けてくださったのです。
イエス様を信じる人は、誰も罪に定められることはありません。神の裁きの日が
「福音(良き知らせだ)」と、パウロが言っているとおりです。
また、この世にあっては、受け入れがたいこと、矛盾や困難がありますが、その全てに
対して、神様は正しい裁きを行ってくださるのです。
イエスキリスト再臨と、正しい裁きを覚えながら、1日1日イエス様との交わりの中で
感謝して歩んでいきましょう。
2016年6月7日火曜日
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