2018年5月28日月曜日

『沈黙のイエス』


 5月27日の礼拝は、『沈黙のイエス』というタイトルで高尾牧師より
メッセージを取り次いでいただきました。マルコの福音書15章1節~15節。








 イエス様はユダヤ人の裁判の後、ローマの裁判を受けるためピラトのもとに
連れていかれました。この裁判でイエスさまの十字架刑が確定します。誰が
イエス様を十字架につけたのでしょうか。

パリサイ人、律法学者たち。彼らはイエス様へのねたみから、イエス様を
死刑にさせようとしました。自分たちより人気のあるイエス様が妬ましかった
のです。彼らの「ねたみ」が、イエス様を十字架に追いやりました。

 次に群衆。イエス様がエルサレムに入場されたとき「主よ、お救いください」
と歓迎しました。しかし、パリサイ人祭司に扇動され「十字架につけろ」と
叫んだのです。彼らの「流されやすさ」がイエス様を十字架に追いやりました。

 そして、ピラト。彼はイエスさまに悪いところがないのがわかっていたのに、
群衆の機嫌を取ろうとしました。彼の「弱さゆえの選択」がイエス様を十字架に
追いやりました。 

 このような、ねたみ、流されやすさ、正しい選択ができないといったことは、
私たちの内にもあるのではないでしょうか。私たちにあるその罪が、イエス様を
十字架につけたのです。何の罪も犯されなかったイエス様が有罪で、有罪である
はずのバラバが無罪になりました。イエス様によってバラバに命が与えられた
のです。このバラバの姿こそ、イエス様によって命が与えらえた私たちの姿で
ないでしょうか。


  そのような大変の状況の中、イエス様は黙って立っておられました。ただ、
ご自分が「ユダヤ人の王か」という問いに対してだけ、はっきりと応えられたの
です。

 イエス様はご自分が何者で、何をすべきなのかはっきりと見据えておられ
ました。私たちも、自分が神様に愛されている神様のこどもであることを覚えて
歩みたい、主の愛をまっすぐ受けて歩みたい。そうするとき、イエス様のように
揺るがされることなく、歩んでいけるのです。