あなたの街のキリスト教会です。

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2018年4月1日日曜日

『エマオの途上の弟子たち』



 本日の礼拝は、『エマオの途上の弟子たち』というタイトルで高尾牧師より
メッセージを取り次いでいただきました。新約聖書ルカの福音書24:13-35節。






聖歌隊の皆様による特別賛美です♪









洗礼式が執り行われました。


進級式もありましたよ(^^)v














2018年3月18日日曜日

『悔い改めへと導かれる神』





 本日の礼拝は、『悔い改めへと導かれる神』というタイトルで高尾牧師より
メッセージを取り次いでいただきました。旧約聖書、創世記42:18-25節。






 ヨセフのお兄さんたちがエジプトへ食料を買いに来た時、大臣ヨセフはすぐに
気づきました。でも自分の正体を明かさず、荒々しい態度でスパイだと決めつけ
牢屋にいれました。そして三日後に、一人を残し、末弟のベニヤミンを連れてく
るように言ったのです。なぜ、このようなことをしたのでしょうか。仕返し
でしょうか。いいえ。


 ヨセフはイエス様の型だと言われています。ヨセフが荒々しい態度をとった
ようにイエス様も荒々しい態度をとられるときがあります。それは、相手を
目覚めさせ、真に生かすためです。ヨセフは、お兄さんを生かすために、
どうしても確かめなければならないことがありました。ヨセフを売り飛ばし、
父ヤコブにうそを言い、悲しませ、神様も悲しませた罪を悔い改めているのか、
ということです。ヨセフが去ったあと、父ヤコブの愛を一身に受けている
ベニヤミンに対し、冷たい態度をとっていないか調べようとしたのです。

 お兄さんたちは、この災いに対し、かつて自分たちがヨセフにしたことの罰を
受けているだと言いました。しかし、これは罪を悔いているのであって、悔い
改めているのではありません。(悔い改め=神様の方に方向転換)

 しかし、ヨセフはこれを聞いて泣きました。そしてもう一度彼らの前に立って
シメオンを縛り上げました。罪を悔いるだけでは、自分を責め、人を責めるだけ
です。神様は罪をそのままでいいとはされない方です。イエス様の十字架は、
神様の愛のしるしであると同時に、神様のさばき、神様のきよさの表れでもある
のです。

 人は、「自分は罪びとである」という自覚がなければ、十字架を見ても
赦されているという喜びはありません。神様は私たちが罪に鈍感で、神様に
無関心なところから引き揚げ、神様の方に方向転換し、正直に祈るようにと
願っておられるのです。



聖歌隊の皆様による特別賛美。讃美歌24番。「ちちのかみよ」




 4月からティーンズクラブのEmily☆おためしティーンズよ!






昼食サービスはカレー♪婦人会の皆様ありがとうございます!


完食ざます依乙里ちゃん(^_-)-☆とっても美味しかったね!


4月1日はイースターフェスティバルですよ(^^)v







2018年2月25日日曜日

『恐れからの解放』



 本日のメッセージは、『恐れからの解放』というタイトルで高尾牧師より
メッセージを取り次いでいただきました。新約聖書マルコの福音書14:26-42節。








なんとっ!!!7年ぶりにHirokiが教会に来てくれました!(^^)v




暗唱聖句キリッ(^_-)-☆



 信仰継承の集い♪ 「子どものための祈り~30のリスト~」 
始まる前にみんなでランチタイム♪



3月4日は、タラント市場だよ!みんなあつまれーーーーっ!!!







2018年1月7日日曜日

『新しいぶどう酒は新しい皮袋に』


 本日のメッセージは、『新しいぶどう酒は新しい皮袋に』というタイトルで
高尾牧師よりメッセージを取り次いでいただきました。新約聖書マタイの
福音書9章14~17節





 バプテスマのヨハネの弟子がイエス様に「なぜあなたの弟子は断食をしないの
ですか」と尋ねました。パリサイ人やヨハネの弟子が週2回断食している日に、
取税人マタイと食事をしておられたからです。

 イエス様は断食を否定しておられるのではありません。「断食」は、この世の
罪、自分の罪を悲しみ嘆くという意味があります。しかし、実際には、断食が
人に見せるため、自分を清くして神に近づく手段になっていました。

 私たちは救われるために自分で何かをしなければならないと考えます。しかし、
それは、自分で自分を救おうとしているのです。しかし、正しくしようとしても
できない、そういう罪深い私たちのためにイエス様は十字架で命をかけて愛して
くださいました。ただ、それを感謝して受け取るとき、私たちの心は喜びに満た
されます。信仰生活、教会生活の動機は、このイエス様がいてくださるという
喜びなのです。


しかし、自分の心がイエス様につながっていないなら、信仰生活が義務になって
しまいます。義務には喜びも感謝もなく、ただ苦しいだけです。イエス様という
新しいぶどう酒を、義務という古い皮袋に入れるのではなく、婚礼の花婿を喜ぶ
ように、キリストがいてくださることを喜び感謝して、この一年も歩みたいと
思います。

その秘訣は、コンセントをつなぐと電気が通るようにイエス様につながること
です。イエス様、あなたが私の罪を赦すために十字架にかかってくださり、
愛してくださっていることを感謝致します。私の心を、あなたへの感謝と
喜びで満たし、その愛に応答して歩ませてください。アーメン。








 







2017年12月31日日曜日

『主イエス・キリストの恵み』







 本日のメッセージは、『主イエス・キリストの恵み』というタイトルで野沢
宣教師よりメッセージを取り次いでいただきました。新約聖書Ⅱコリント13:13

 今日の聖書箇所は、いつも礼拝の最後で聞いているおなじみのことばです。
コリントの町の教会に宛てて書いた手紙を、パウロはこの祈りのことばで締めくく
っています。コリントの教会は、もともとパウロと仲間たちがイエス様のことを
伝えて誕生した教会です。新約聖書「使徒の働き」18章に書いてある通りです。

 コリントの町は今のギリシャの国にありました。商業や貿易で栄えていた町でした
が、偶像にあふれ、本当の神様を離れた人々の生活は乱れていました。そうした影響
を受けて、コリントの教会では、色々な問題を抱えていました。教会の中で分裂が
あったり、仲たがいもありました。パウロが教えたことをよく理解できていなか
ったり、それどころかパウロを悪く言う人たちも出てきていました。

パウロはこの手紙の中で、問題のひとつひとつを取り上げて、説明し、誤解を解き、
批判に応えています。そして、手紙の最後で、挨拶と共に、「主イエス・キリストの
恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」
と祈っています。


 これは、コリントの教会のクリスチャンたちが忘れていたことでした。「恵み」は、
神様が私たちに良くしてくださったすべてのことも意味しますが、特には、罪の中に
死んでいた私たちをイエス様によって救ってくださった恵みです。イエス様が私たち
のために死んでくださったことにより、私たちは神様の愛を知ることができました。

イエス様を信じる人たちの心に住んでおられる聖霊は、励まし、助け、正しい方向に
導いておられます。その聖霊の働きによって、教会の中の問題が解決して皆がひとつ
となるようにと、パウロの願いが込められているのです。



讃美歌524番





讃美歌352番